趣味なんて無くても普通に幸せなんだけど。
趣味なんて無くていい。
これは、ある人を否定してるわけじゃ無くて、
なきゃいけないみたいな思い込みを押し通してくることに対して言っている。
ある人は全然いい、別に、楽しんでるから、害はないし、楽しそうで何より、という感じだ。
でも、ない人への圧がすごくなってきてる。
それをどうにかしたい。
確かに、現在は、楽しいことは無数に溢れて、求めればすぐに手に入るし、選び放題だ。
ゆえに、
そんなにあるのに、なぜないの?(シュミが)
という感じだろうか。
うーん、無意識にやってることはたくさんあるんだろうけど、そんな大それたことやってないしなぁって思う。だから無いっていう。
趣味へのハードルが高いのだ。
私が思うに、現代の趣味は、
なんかヒマだからやること
という単純なものではなく、
・フンッと意気込んで、熱心に取り組んでいるもの
・それについては誰よりも詳しいですよって言える知識量
・ずーっと何年も続けてますけどというコツコツさ
・独自の視点から楽しんでますよ、という唯一感
・大好きですってめちゃ自信持って愛を放ってる感
という、研究者並みにすごいことを要求されてるニュアンスに格上げされている気がする。
無理だ、、、趣味なんてないよ、、ってなるのは当たり前で。
確かにそのレベルでやってる人はいるけど、
別に私たちは、そのレベルでやらなくても幸せじゃん?
だってそうじゃなきゃ楽しくないならみんな何らかの研究者になってる、はず、、
でも、普通に過ごす中に全然幸せ見出せるし、その幸せありすぎて満たされてるんだから、だったら別にそれ以上求めてないのも当たり前だよね。
+αでテレビとかちょいちょいつまめばもう満たされるよね。
思うに、研究者並みのことをやるには、まずスタートがすーっごいヒマでどうしようもなかったか、それをすっごい好きって感じるように生まれてきたか、育ったか、な感じがする。無理してない。
そしたら、一度ハマったら惰性で続いたりするから。
だって、無理してやり始めることってつまんないじゃん?
だから無理ない範囲でやってることで、趣味って言っちゃっていいと思う。
それが、私の範囲での趣味なんだから。
頑張って作ろうとするのは、キャパオーバーゆえ、楽しめないから結局趣味にならないよ。
だから、普通に、
テレビ、アニメ、映画、本、ドンキのガチャガチャ確認、コンビニスイーツ、とかでいいと思う。
趣味を自慢してくるのは、だいたいこれ好きって言ってる俺いいかもっていうレア感だったりするよ。
人の知らないこと知ってるとか、思いたくてやってたり、説明し始めたりする。
それは他人受け用のハッタリの趣味だから、大丈夫よ。
普通に楽しんでたら無自覚だからね、自慢する気も起きないから。自分の中で楽しんで終わり、みたいな。聞かれたら答えるくらいよ。
つまり、むしろ無自覚の方が実はハマってる可能性あるし(詳しいかは別として)、なんかやってたら時間を忘れてるなとか、これやってるってバレたくないな、とかくらいの方が十分シュミな可能性ある。
詳しいかはどうでもいいから。
知識なんて、ネットで調べればいくらでも出てくるから、価値なんてない。スマホさえ持ってれば対抗できる。
気づかぬうちにチョコチョコ手を出してたとか、
そういう静かな熱さと小さなワクワクが、
たとえ一時のものであれ、
十分人生に彩りを与えるシュミなのだ。
何にもしなくていいのに、何かしなければと思い込んでいる社会。
何かしなくちゃ、
仕事頑張らなくちゃ
肩書きもたなくちゃ、
趣味を持たなくちゃって、
思い込ませようとしてくる社会。
みんな同じを良しとするからどんどん膨らんだ思い込み。
足りないものを付け足そうとするなんてことは、だいたい疲れるもの。
自分にないものをくっつけようとしてるんだから、くっつくわけないんだよね。
くっつくべきものはもうくっついてるから。
だから、何がくっついてる人がいいとかじゃないんだよ、きっと。
それぞれくっついてるものがあるから、それの範囲で楽しく生きればいいはずなの。
ああ、この人はこれくっついてるんだね、私はこれくっついてるみたいだ。
あ、これほしい人いるから、私の持ってる分おすそわけして助けてあげよう。
とか、それぞれを尊重して、支え合えば、
全体として足りないものは何にもないんだよね。
だから助けを借りることさえできれば、何にもなくたって、自分でいるだけで、無理しなくても幸せでいられる。
逆に助けを借りないと絶対自分の持ってるものだけでは生きられないと早く実感したほうがいい。
そして素直に助けを借りられるようになったら、自分のできる範囲で社会の中の役に立ちたいなって、恩返し的な意味で真に思えるようになる。
そしたら、本当に自然体で、あるもので働ける。
そして、何にも付け足さなくても誰かの役に立てるし、ちゃんと誰かに優しくされるんだ。って色々気づく。
私も、何にも条件なく、優しくしようとも思える。
助け合いの優しい世界に気づけば、そうやって1人で強がったり、無理して不用品を身につけようとアクセクしなくてもいいことに気がつくのに。
助け合いの世界、思い出そう。
見えないけど、昔から変わらず人はきちんと繋がっているんだ。
1人でガチガチにできるようにしたりせず、できる人
いるんだから頼ろう。
周り見渡せば、レジはレジで働いてる人にやってもらってるし、
病院行けば、丁寧に扱ってもらえて見てもらえるし、
美容室行けば、ニコニコ髪切ってもらえるし。
自然体でいても、何にもない自分でも、みんな優しいし、思い合って生きてることに、観察すれば気づけるはず。
気づける心の余裕と、他者への見返りを求めない助け合いの世界を思い出せれば。
少しは生きやすくなるはずと、思う。
まぁ、
競争社会です、みたいなバリバリしてたり、ごちゃごちゃしてるところにいれば、
これを手に入れなきゃいけないのか、とか変な不安や、
集団の中の1人、という孤独感が余計、個を強くしなければ生き残れない、
という価値観を生んじゃうのは、ストレス極まりないよね。
その点で、地方は、
疎だから、人と人の距離が物理的にあるから、
私は私でいいやと、自分の軸を守れるのと同時に、
精神的距離は近いから、繋がってる感で、
モノや自分1人の能力に依存しないでいれるから、
生きるのが楽に思うなぁ。